2026年01月13日

絶対に誤読される話~いじめについて~

栃木県を筆頭にいじめを受けている動画を
ネットで拡散するというのが流行っていますね。

そのことについて
私の意見を慎重に書こうと思いますが
これは読む側のリテラシーに期待しないと
普通に読むと誤読必至な話だと思います。

私は、この動画で晒して、やり返すという方法に大反対です。
危険だと思うんです。

被害者側の立場に立てば、
学校や周囲の大人に助けを求めても状況が改善されず
「この方法しか残されていなかった」と感じている
可能性は高いと思います。
そして、追い詰められた末の行動であるという点において
そこにある怒りや絶望感自体は理解できます。

でも、このような「晒し」を伴う報復行為には
強い危険性があるんです。

最大の問題は、映像が必ずしも真実の全体を示さないという点です。
SNSに投稿される映像は、出来事の一部分を切り取ったものにすぎません。
そこに至るまでの経緯や文脈が全く分らないんです😱
過去にどのようなやり取りがあったのか?
挑発や相互の暴力がなかったのか?
撮影者の意図は何だったのか?
そうした重要な情報は、映像からは読み取れません。

それにもかかわらず、ネット上では
「暴力を振るっている側=絶対悪」という
単純な構図が瞬時に形成されてしまう。
しかも日本人の文化の悪い部分とマッチして
一度その印象が定着すると、後から事情を説明しても、
あるいは法的に無罪や不起訴となったとしても、
評価が覆ることはほとんどないです!

映像による告発は、司法の判断を待たずに社会的制裁を下してしまう行為なんです。

さらに厄介なのは、この方法が理論上は悪用可能であるという点です。
たとえば、意図的に相手を挑発し、暴力を誘発したうえで
、その瞬間だけを撮影・公開することもできますよね?

実際にそれが頻発しているかどうかは別として
「できてしまう構造」が存在すること自体が問題なんです。

こうした手法が広まれば、正義の名を借りた罠や冤罪が生まれる土壌が
社会に整ってしまうんです。

また、晒しによって残されるデジタルタトゥーは、
法的な罰とは比較にならないほど重いんです。
法律による処罰には期間や範囲が定められ、更生という考え方が前提にあります。
でもSNS上の制裁には終わりがありません。
映像は半永久的に残り、本人だけでなく家族や将来にまで影響を及ぼします。
その制裁が妥当かどうかを判断できる者は誰もいませんよね?
果たしてそこまでのいじめだったのか?
いじめには当然「程度」があると思うんですが
そういうことは一切お構いなしに
事実上の「終身刑」が課されてしまうんです。

暴力やいじめがあったかどうか、どの程度の責任があるのかは、
証拠と文脈を精査したうえで、警察や司法が判断すべき問題ですよね?
映像はそのための証拠として使われるべきであり
世間に向けた制裁の道具として使われるべきではないです。
時間がかかり、感情的なカタルシスも得られないと思いますが、
それこそが社会が壊れないための唯一の方法だと思うんです。

もちろん
分りますよ、いじめを学校や警察がまともにとりあってくれない
だから晒してやりたいと気持ちも。
でもこの方法を容認してしまえば、
次は誰が「正義の名の下に」罰せられるのか分からなくなります。
文脈を無視した制裁が常態化する社会は、いじめをなくすどころか、
新たな被害者を必ず生むので。

だから私はこの行為自体に大反対なんです。

話が長くなりすぎるので、今日は書きませんが
いじめや暴力という人類の歴史と共にあるような
ある意味、文化がありますが

その構造を分析すると
いじめっ子が憎いわけでも、
いじめられっ子が悪いのではなく
憎くて悪いのは「暴力自体」なんです。

posted by 物理屋hν at 00:00| Comment(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年01月12日

医学部予備校、急に倒産

塾や予備校の倒産ラッシュが続いておりますが
この業界は、誰でも始めやすい
同時にやめやすい業界で
予備校を売ったり、横領があったり
急に破産したり
何でもありの業界です。
ヤクザ稼業なんです。

受験直前期の今に……倒産せんでも……って
私は個人的には思いますが
そういう業界と距離を取りたいから
1人でやっている、人は雇いたくない
というのは、あります。

関わりたくないです。
いろいろな予備校等で教えてきましたが
結論として。

お金を稼ぐより
私にとっては
自分の人生を充実したものにするとか
自分に誠実に生きるというほうが大事なので

そういう予備校に属すると
なんらかのヤバイ感じのことの片棒を担がなければ
ならなくなるので……触れない方がいいな……って思うんです。

誰でも無資格で始められますしね
ただ……もう
子供の数も減っていき、入試形態も総合型諸々
多様になってきた中で
例えば
予備校のように全員に同じ指導をするというのは
成り立たないでしょうし
個別に個人に合わせてやっていくというのが
主流な時代になり
そうなると先生の数が必然的に沢山必要になり
そうなると当然
品質は落ちていくので……
って、いう感じでしょうね。

色々予備校の倒産ラッシュですが
個人的には
この時期に倒産はやめろよ……って思いますが。
しかも、急にですよね😅

まあ
なんか、私は私で勝手にやってるので
こういう関連の話には触れたくないなあって思います。

私は私の仕事を
今日も1日コツコツやっていくだけです👊
posted by 物理屋hν at 00:00| Comment(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「強者」「弱者」って何?😅😅

最近インターネット上で……「弱者保護が行き過ぎている」
「文句を言う前に強者になれ」といった
言説が頻繁に見られます。
これを見るたびに
私は思ってしまうんです。

素直な人間なので😁

その人たちが使ってる「強者」「弱者」という言葉の定義って何?って

これは言語学的に正しいとか正しくないとか
正確だとか不正確だとかを言いたいわけではないです。
使い方に文句があるわけでもないです。

純粋な疑問なんです。

ある人が自分の「強者」「弱者」という言葉の定義を
表明してくれれば、その文脈で読んでいくので
問題ないのですが😅
それが示されないので、その言葉を元にされる議論が
ちんぷんかんぷんなんです。

今日はこれについて考えてみます。

まず、社会における「強さ」「弱さ」は、原則として相対的な概念ですよね?
収入、地位、学歴、身体能力、発言力など、いずれの尺度を取っても、
それは他者との比較によって初めて成立しますよね?
したがって、相対的な意味での「強者」を全員が
同時に目指すことは論理的に不可能ですよね……至極当然に。
誰かが相対的に強くなれば、必ず誰かが相対的に弱くなりますから。
全員強者には絶対になれません!😁
そうなると「全員が強者になれ」というスローガンは、
この時点ですでに論理的な整合性を失っています。

では、強者・弱者を絶対的な概念として捉えているんでしょうか?
でもそういう場合
絶対的な「人間の強さ」を測る共通の評価軸は現実には存在しないですよね?
経済的に成功していても精神的に不安定な人はいるし、
知的能力に恵まれていても社会的に報われない人もいます。
人間は複数の側面を持つ存在であり、ある文脈では強く、
別の文脈では弱いということはごく自然なこと
です。

一人の人間を単一の尺度で「強者」あるいは
「弱者」と断定すること自体が、実態を正確に反映していないですし
そもそも
自分を強者にしたい人が恣意的に評価基準を
設定できてしまいますよね?😅
だから、この議論を語る人は、いつでも自分の評価軸で
自分を「強者」にも「弱者」にも出来るんです。
こんなの何の一貫性もなく、語られるのは100%
自分にだけ都合のいい感情論ですよね?

誰かが、カタカタが分るかどうかで、
強者弱者を分けるんだ!って言われれば
私は完全な最弱者です😂
カタカタ苦手なんで…😅

このように考えていくと……
ネット上で使われる「強者」「弱者」という言葉は
もしかして
厳密な分析概念というよりも、感情的・道徳的なレッテルとして
機能している場合が多いのではいか?という風に自然に考えられます。

その文脈では
社会構造や制度設計の問題は後景に退き
「努力した者は正しく、報われない者は甘えている」という単純な物語が
前面に出てくる……
この構図は、複雑な現実を考えなくて済むという点で、
語る側にとって非常に都合が良いのではないか?って思うんです。

その結果、「弱者保護が行き過ぎている」という主張も、
具体的にどの制度が、どの程度、どのような弊害を生んでいるのかが
示されないまま語られることが多いですし……
「強者」「弱者」の定義も因果関係も明示されない以上、
その主張に「理があるのかどうか」を判別すること自体が困難になるんです。

私は分らないと言いましたが、正確に言うと
理解できないのではなく、評価するための材料が提示されていないんです。

私はどんな意見でもフラットにフェアに聞きたいんですが
そもそも使われてる言葉が
本人がどういう定義で使ってるか?明示してくれないと
何もわからないんです😅

posted by 物理屋hν at 00:00| Comment(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年01月11日

格闘技の怪我は自費診療にすべきなのか?

美容整形外科の麻生さんと言う方が
Xのポストで
格闘技の怪我は自分で怪我をしに行ってるのだから
自費診療にすべきだ、という
ポストをされて

それを偶然
私もみてしまいましたが……

え???っていう風に私は思いました。

皆さんはどう思われますか?

まあ、麻生さんはおそらく自由診療で
生きてるので
しっかり仕組みを理解されてないと思うんですが

日本の公的医療保険は「原因ではなく、必要性に基づいて給付する」のが原則です。
これは保険医療に携わる人は当然皆知っています。
日本国憲法で言えば、法の下の平等くらい大切な基礎原理です。

スポーツ外傷(格闘技、サッカー、スキーなど)
趣味の事故(DIY、登山、釣り)
仕事中の不注意(※労災は別枠)

これらはすべて 「自ら選択した行為」ですが、
通常は保険診療の対象です。

もし「危険だと分かってやったことだから自費」
を徹底すると、どうなると思いますか?
システムとして。

喫煙者の肺がん
飲酒による肝疾患
肥満由来の生活習慣病
高齢者の転倒骨折まで
際限なく線引きが必要になり、制度として破綻しますよね。

酒が身体に悪いと分って飲む
タバコが肺に悪いと分っていて吸う
……
これで体調を崩しても、普通に保険診療です!!


現在の制度では
 故意の犯罪行為や自傷行為など、極めて限定的な場合のみ保険適用外
という整理になってるんです。
そしてこれは極めて合理的でフェアな決め方だと思います。
公的医療や救助(麻生さんは山での遭難の例も挙げておりました)は
行動の是非を裁かない、結果として生じた必要だけを見る
という思想で設計されてるんです。

つまり麻生さんの意見は
医師個人の倫理観・思想としては自由です!
だけど 現行制度とは相容れない
ということです。

こうしないと、誰かが恣意的に線引きをすることが可能になるからです。
それは法の下の平等に反します。


麻生さんの主張は、突き詰めると公共サービスは
「正しい生き方」をした人だけが受けるべきという思想に近づきます。
しかし日本社会はこれまで危険を承知で挑戦する自由
失敗しても命と尊厳は守るという価値観を
前提に制度を作ってきました。
「愚かな選択」(酒を飲んで脳を破壊する、肝臓を破壊する)
さえも一線を越えない限りは公的に支える
という設計になっているんです。

これは問題の構造
麻生さんはご理解なさっていないようですが
無謀行為への一定の自己負担・保険加入促進は
合理的「全額自己責任」か「全額税金」か、ではなく
 線引きをどこに置くかの問題
なんです😀

posted by 物理屋hν at 00:00| Comment(5) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年01月10日

逃げ水と蜃気楼について

生徒に以前薦められた動画の解説がどうかと
思うので、今日は
数式を使わない(世界平和のため😂)で
概念的にこの違いを説明しようと思います。

夏の暑い日に道路の先が
水に濡れているように見える現象は「逃げ水」と呼ばれます。
高校物理では光の屈折を用いて説明されます。
一方、遠くの船や建物が浮かび上がったり逆さまに見えたりする
「蜃気楼」も、同じく光学現象として教えられますが
両者は異なるものとして区別されることが多いです……が……
実はこの違いは、高校物理が現象を理解しやすくするために
空気や光の振る舞いを大きく単純化して扱っていることに由来するんです。

 高校物理における逃げ水の説明では、
空気の屈折率が温度によって変化することが重要な前提となります。
地面近くの空気は強く加熱されて密度が小さく、屈折率も小さい。
一方、上空の空気は比較的冷たく、屈折率が大きい。
このように、屈折率が下に行くほど小さくなる分布があると、
空から地面に向かって進む光は次第に上向きに曲げられる。
その結果、本来は地面に届くはずのない空の光が観測者の目に入り
地面で反射した光であるかのように知覚されます。
これが、水たまりが存在するように見える逃げ水の正体なんです。
ここで見えているのは実在の物体の像ではなく、
空の明るさが作る見かけの像である点が強調されます。

 これに対して蜃気楼は、物体から出た光が大きく屈折することによって、
本来とは異なる位置や向きに像が形成される現象として説明されます。
高校物理では、遠方の船や建物が倒立して見える例などが典型的に扱われ、
像の向きや位置関係が重要なポイントとなります。
逃げ水と同様に空気の屈折率分布が原因ではあるんですが
蜃気楼では「何らかの物体の像が見えている」という点が決定的な違い
として整理される。そのため高校物理では、逃げ水は水面反射のように見える現象、
蜃気楼は屈折によって物体像が生じる現象、という区別がなされてしまうんです……

 このように、高校物理では逃げ水と蜃気楼は、見えているものの性質の違いによって
比較的明確に分けて扱われるのですが……
大学以降の物理学では、この区別は必ずしも本質的なものとは見なされなくなります。

その理由は、現実の大気中では屈折率が層状に不連続に変化しているのではなく、
温度や密度の変化に応じて連続的に変化していると考えるからです。
このとき光は境界で折れ曲がる折れ線ではなく、連続媒質中をなめらかな曲線として伝播
します。

 大学物理では、光はフェルマーの原理に従って進むとされ、
屈折率が位置の関数として与えられた空間では
、光線は微分方程式によって記述される曲線となります。

この立場に立つと、逃げ水と蜃気楼は質的に異なる二つの現象というよりも、
同じ大気中の屈折率分布が、観測者の位置や視線の角度、
温度勾配の形の違いによって異なる見え方を生み出しているに
過ぎないことが分かります。

空の像が強調されれば逃げ水のように見え、
物体からの光が強く曲げられれば蜃気楼として
認識されるのであり、その間には連続的な移行が存在します。

 さらに現実の大気は常に揺らいでおり、
屈折率は時間的にも空間的にも不規則に変動しているんです。
そのため像は揺れ、歪み、場合によっては複数に分かれて見えます。
このような効果まで含めて厳密に扱おうとすると、
幾何光学だけでなく、流体力学や熱力学、さらには波動光学や
数値計算の知識が必要となり
現象は研究対象としての複雑さを帯びます。

私は物理学は単なるモデルに過ぎないと
いつも言ってますが
逃げ水と蜃気楼の違いは、高校物理では
理解しやすさを重視したモデルの中で
整理された区別なんです。

一方、大学以降の物理学では
それらは同一の物理的基盤の上に現れる
多様な見え方の一部として統一的に捉え直されます。

高校物理の説明は誤り……とは言えないですが
現象の一側面を切り出した最小限の描像
それが全てでそれで説明出来るものでもないんです。

わかりやすく言うと
全ての犬の習性を柴犬で説明してしまうようなものです。
チビマルみたいな変な犬も
いたりするんです😂
posted by 物理屋hν at 00:00| Comment(1) | 科学ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする