イマヌエル・カント(1724〜1804)は18世紀ドイツの哲学者で
近代哲学に大きな影響を与えた存在です。
当然日本でも超有名かつ人気がある哲学者です。
カントの主著『純粋理性批判』において中心的に語られるのが、
「人間は物自体(Ding an sich)を知ることはできない」という主張なんです。
カントの思想は、実は現代科学と非常に深い関係があります。
彼の「認識は主体の構造によって規定される」という考え方は
物理学の20世紀革命
特にアインシュタインの相対性理論や量子力学に近い発想を
先取りしていると言われています。
相対性理論は時間や空間が観測者の立場によって変化することを示しました。
これは哲学的に捉えると
カントが「時間や空間は人間の認識形式だ」と述べたことと重なりますし
量子力学は観測者が対象の状態に影響を与えるという「観測問題」がありますが
これもカントの「認識が対象に影響を与える」という立場に近いんです。
世の中の大半の哲学は、科学的な発見があって、そして哲学が発展するという
順番なのですが、これらの20世紀物理学における革命的とも言える確信は
カントの思想が大きく影響してるかもしれません。
こっちが本当のカントはコペルニクス的転回(笑)なのかも、って私は思います。
カントは「世界はそのままにはわからず、人間の認識によって構成される」述べました。
この考えは、一見すると悲観的に思えるかもしれませんが
カントの認識論の核心を成すものであり、人間の理性の限界と可能性の両方を見つめ直す
視点を提供しているのです。
カントをあまり知らない読者に簡単に
カントの考え方を説明して起きます😀
カントの思想を理解する上で鍵となるのは
彼が言う「コペルニクス的転回」と呼ばれる発想の転換です。
それまでの哲学は、認識がいかに対象に従うか、
つまり私たちの知識がいかにして外界の事物に適合するかを問うていました。
これに対してカントは、対象が私たちの認識に従うのではないかという
逆転の発想を提示した。つまり、人間が世界をどう「知覚」し「理解」するかは
人間の認識の構造に依存しているというのです。
この認識構造において重要なのが、「現象」と「物自体」の区別です。
私たちが経験する世界は、空間や時間、因果律といった枠組みのもとで
捉えられており、これは人間の認識能力によって構成された「現象の世界」に過ぎない。
つまり、私たちが見ているもの、感じているものは、
すべて人間の認識形式を通して現れている「現象」であり
それが対象そのもののあり方=「物自体」ではない。
物自体は、人間の認識の枠組みを超えたところにあるため
私たちはそれを直接知ることができないという考えです。
わかりやすく例を挙げると
たとえば、リンゴを見たとき、私たちは
それを赤く、丸く、重みがあるものとして認識しますよね。
しかしそれらの性質は、私たちの感覚と認識の枠組みを
通して知覚されているにすぎず
「リンゴそのものが本質的にどのような存在であるか」は
私たちには分かりません。
それが「物自体は知り得ない」ということの意味なんです。
すごく誤解を恐れず、平たくいうと(カントさんごめんなさい)
私達は私達の認識してる世界しか知らないんです。
例えば目に見えるものは、網膜に映ります。
しかし網膜は平面です。つまり平面の世界しか私達は知覚してないのに
脳が勝手に(人生経験で)処理して、この世を立体的に見せてるわけです。
脳が作った架空の世界が私達にとっての「現実」なんです。
このようにカントは
人間の理性が世界を理解する力を持つ一方で
それには限界があることを明らかにしました。
ここには、理性を万能と捉えた近代合理主義に対する批判と
経験に基づく知識だけでは世界を十分に捉えられないとする
経験主義への反省が含まれています。
カントはこの両者を統合し
「経験が始まる以前に人間の認識がどのような構造を持っているのか」
を問い直すことで、独自の認識論を打ち立て
これは今の時代から見ても
18世紀にこんなことよく気付くなあ……😅って思います。
さらにカントは
道徳や自由、神の存在など、経験を超えた問題に対しては
「理性の実践的使用」という形で新たなアプローチを提示しています。
私たちは物自体を理論的には知ることができないが
実践理性(道徳的判断)においては
それを前提にせざるを得ないという立場をとっています。
ここに、カントの思想における理性の「限界」と「尊厳」の両面が示されているんです。
これについてはこの文章の本題から外れますが
カントは『実践理性批判』や『道徳の形而上学』の中で
「自由」「不死」「神の存在」といった概念を「理性の要請」として扱いました。
例えば
「神は証明できないが、道徳的世界の整合性のために信じる必要がある」と主張したり
宗教は外部からの命令ではなく、内面の道徳法則に基づく「理性の宗教」であるべきだと説いたり
しました。これは興味の湧いた方はそちらをお読み下さい。
カントの「物自体を知ることはできない」という主張は
人間の認識の限界を示すと同時に
私たちがいかに世界を知り、行動するかを問い直す契機となる思想なんです。
それは無力さを認めるものではなく
むしろ人間の理性の役割と責任を自覚させるものであり、
現代つまりこの21世紀においてもなお意義を持ち続けていると思います。
2025年04月23日
2025年04月15日
神は死んだのか?
19世紀ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、
その著作『悦ばしき知識』や『ツァラトゥストラはこう語った』の中で
「神は死んだ(Gott ist tot)」という言葉を記しています。
この言葉超有名ですが
おそらく専門家以外の多くの人がこの言葉を
誤解して捉えてると思います。
一般向けの本でも
そういう間違えが散見されるので
仕方ないと言えば仕方ないですが😅
この言葉は文字通りに
宗教的な神の存在否定のように捉えられがちなんですが
これは単なる無神論の表明ではなく
近代以降の西洋社会の価値観の
根底にある「神」を喪失したことへの
ニーチェの
深い洞察と警鐘なんです。
昔、理三志望で(実際に合格しましたが)
開成の生徒と雑談したときに
ニーチェの考えがしっかり分かっていて
驚いたことがありますが😀
ニーチェの言う「神」とは
伝統的なキリスト教の神のみならず
それに基づいて形成されてきた
道徳や価値観そのものを象徴しています。
ヨーロッパの長い歴史において
神の存在は倫理の土台であり
善悪の判断基準でありました。
しかし、科学の発展や啓蒙主義の影響により
人々は徐々に宗教的世界観から
距離を取り始めます。
神に依拠した価値体系は
相対化され「絶対的な真理」は
もはや支配的ではなくなっていった。
ニーチェが「神は死んだ」というのは
このようにして神の権威が人間の意識の中から失われ
従来の価値体系が
崩壊したことを意味しているんです。
つまり、この言葉は単に
「神はいない」と言っているのではなく
「かつて人間が依拠していた価値の中心が失われた」
という文化的・精神的な危機を告げているのです。
これがニーチェの有名な虚無主義(ニヒリズム)
の序章です。
このような状況に対して
ニーチェは「虚無主義(ニヒリズム)」の到来を予見したんです。
価値の中心を失った社会は、何が正しいのか、
何を目指すべきかという方向性を見失い、
人間は深い空虚に直面する。
その結果として、人々は
無意味感や退廃に陥る危険があるとニーチェは考えたんです。
しかし、ニーチェはこの虚無をただ嘆くのではなく、
新しい価値の創造を呼びかけたんです。
ここがニーチェが現代人に人気である所以だと思います。
前向きなんです😀
そのニーチェが何故
晩年発狂してしまったのか?
色々な説がありますが
それは私にも分かりません……
「神は死んだ」という絶望的な宣言の先には
「超人(Übermensch)」の思想があります。
超人とは、もはや外部の権威に頼ることなく
自らの力で価値を創造し、生を肯定する人間像です。
伝統的な道徳や規範を超えて、
自らの生を主体的に築いていく強い意志を持つ存在として
ニーチェはこの理想像を提示したんです。
まずい……文章が長くなり過ぎる😅
この先を書くと
とんでもなく長くなるの
これを私達の「現代」に置き換えて
考えてみます。
現代社会においても
ニーチェの「神は死んだ」という洞察は重要な意味を持っている
と私は思うんです。
インターネットやAIの発展、グローバル化によって
多様な価値観が交錯する今日
人々は「何を信じて生きるべきか」という問いに直面している
と思います。
気付いてない人がいるかも知れませんが
しっかり考えて生きてる、知性在る人ならば
それはもう分かってると思います。
科学や合理性、コスパタイパが進んでも
人生の意味や人間の尊厳といった
問題に対する明確な答えは
得られないままです。
生命の起源についても
謎なままで
私達は科学で蟻一匹すら作れません。
こういうあらゆる意味で
閉塞感のある時代だからこそ
ニーチェの言葉は
既存の価値に依存することなく
自らの生の意味を模索することの
重要性を改めて問いかけていると思います。
現代において、ニーチェの「神は死んだ」という言葉は
単なる哲学的主張にとどまらず
私たちが日々直面する
社会の課題にも深くつながっています。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及は、
人々の価値観の多様化と混乱を象徴しています。
これらに匿名で書かれている
全ての言動は
正にこの世の終わりです(笑)
かつては宗教や共同体が共有していた
「善」や「正しさ」の基準が
いまや個人ごとにバラバラになり
SNS上では正義や倫理に関する対立が絶えません。
ある人にとっては「正しい行い」が、
別の人にとっては「攻撃的」であることもあり
共通の価値基準の喪失が社会の分断を生んでいます。
なんとか世代の考えなんて
おじいちゃんの私には
全く理解出来ません。
AI(人工知能)の急速な発展も、従来の価値観を揺るがす
事例のひとつでしょう。
AIが人間の代わりに判断を下すようになるとき
そこに込められる「倫理観」は誰のものであり
どんな価値に基づいているのかが問われるんです。
自動運転車が事故の際に誰を優先して守るかという
「トロッコ問題」のようなジレンマでは
絶対的な正解は存在せず
人間がかつて神や宗教に
委ねていた「命の重み」の判断を
今やテクノロジーの世界で
人間自身が決めなければならない状況にある
んです。
これは正に、ニーチェが予見した「神なき世界」で
人間が新たな価値を創造しなければならないという
課題に直面していることを示しています。
ところが我々はこれに対して
全く準備が出来ていません。
神はAIなのでしょうか??
私達
人間はその神に置いてけぼりを
喰らうのかもしれません。
こういう時代だからこそ
まさにニーチェが説いた
「自ら価値を創造する」
生き方が必要なのだと思います。
一旦立ち止まって
これから人類をどうするか?
どういう方向に進ませるのか?
「超人」になって考える必要があると
私は思います。
ちなみに
ここまで書いてきてなんですが
実は私はニーチェが好きでも嫌いでもないです(笑)
ヴィトゲンシュタインの方がずっと好きなんです(笑)
更に因みに当然
前期ヴィトゲンシュタインよりも後期ヴィトゲンシュタインの方が
遙かに好きですし、実は言語のコンテクストや使い方に着目されて
人工知能AIのシステムは出来てますが、この発想こそが
後期ヴィトゲンシュタインであります。
昔の開成の生徒に、私はヴィトゲンシュタインが
好きだと話をしたときに
こういうコンピュータが出来るのではないか?
そうすれば今までと全く違う発想から作り出せる
コンピュータが出来る、みたいな話をしていましたら
2025年ついに私のしがない妄想に
現実が追いついてきました(笑)
ヴィトゲンシュタインが言う
哲学の役割も本質的にあってると
私は思いますし
「言葉は教えるものではなく、使わせるもの」
という話も
私の人生に大きな影響を与え
理論物理学にしか興味がなかった私に
そとの世界、人間とのcommunicationをさせるに至ったのは
ヴィトゲンシュタインだったと言って過言ではありません。
その著作『悦ばしき知識』や『ツァラトゥストラはこう語った』の中で
「神は死んだ(Gott ist tot)」という言葉を記しています。
この言葉超有名ですが
おそらく専門家以外の多くの人がこの言葉を
誤解して捉えてると思います。
一般向けの本でも
そういう間違えが散見されるので
仕方ないと言えば仕方ないですが😅
この言葉は文字通りに
宗教的な神の存在否定のように捉えられがちなんですが
これは単なる無神論の表明ではなく
近代以降の西洋社会の価値観の
根底にある「神」を喪失したことへの
ニーチェの
深い洞察と警鐘なんです。
昔、理三志望で(実際に合格しましたが)
開成の生徒と雑談したときに
ニーチェの考えがしっかり分かっていて
驚いたことがありますが😀
ニーチェの言う「神」とは
伝統的なキリスト教の神のみならず
それに基づいて形成されてきた
道徳や価値観そのものを象徴しています。
ヨーロッパの長い歴史において
神の存在は倫理の土台であり
善悪の判断基準でありました。
しかし、科学の発展や啓蒙主義の影響により
人々は徐々に宗教的世界観から
距離を取り始めます。
神に依拠した価値体系は
相対化され「絶対的な真理」は
もはや支配的ではなくなっていった。
ニーチェが「神は死んだ」というのは
このようにして神の権威が人間の意識の中から失われ
従来の価値体系が
崩壊したことを意味しているんです。
つまり、この言葉は単に
「神はいない」と言っているのではなく
「かつて人間が依拠していた価値の中心が失われた」
という文化的・精神的な危機を告げているのです。
これがニーチェの有名な虚無主義(ニヒリズム)
の序章です。
このような状況に対して
ニーチェは「虚無主義(ニヒリズム)」の到来を予見したんです。
価値の中心を失った社会は、何が正しいのか、
何を目指すべきかという方向性を見失い、
人間は深い空虚に直面する。
その結果として、人々は
無意味感や退廃に陥る危険があるとニーチェは考えたんです。
しかし、ニーチェはこの虚無をただ嘆くのではなく、
新しい価値の創造を呼びかけたんです。
ここがニーチェが現代人に人気である所以だと思います。
前向きなんです😀
そのニーチェが何故
晩年発狂してしまったのか?
色々な説がありますが
それは私にも分かりません……
「神は死んだ」という絶望的な宣言の先には
「超人(Übermensch)」の思想があります。
超人とは、もはや外部の権威に頼ることなく
自らの力で価値を創造し、生を肯定する人間像です。
伝統的な道徳や規範を超えて、
自らの生を主体的に築いていく強い意志を持つ存在として
ニーチェはこの理想像を提示したんです。
まずい……文章が長くなり過ぎる😅
この先を書くと
とんでもなく長くなるの
これを私達の「現代」に置き換えて
考えてみます。
現代社会においても
ニーチェの「神は死んだ」という洞察は重要な意味を持っている
と私は思うんです。
インターネットやAIの発展、グローバル化によって
多様な価値観が交錯する今日
人々は「何を信じて生きるべきか」という問いに直面している
と思います。
気付いてない人がいるかも知れませんが
しっかり考えて生きてる、知性在る人ならば
それはもう分かってると思います。
科学や合理性、コスパタイパが進んでも
人生の意味や人間の尊厳といった
問題に対する明確な答えは
得られないままです。
生命の起源についても
謎なままで
私達は科学で蟻一匹すら作れません。
こういうあらゆる意味で
閉塞感のある時代だからこそ
ニーチェの言葉は
既存の価値に依存することなく
自らの生の意味を模索することの
重要性を改めて問いかけていると思います。
現代において、ニーチェの「神は死んだ」という言葉は
単なる哲学的主張にとどまらず
私たちが日々直面する
社会の課題にも深くつながっています。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の普及は、
人々の価値観の多様化と混乱を象徴しています。
これらに匿名で書かれている
全ての言動は
正にこの世の終わりです(笑)
かつては宗教や共同体が共有していた
「善」や「正しさ」の基準が
いまや個人ごとにバラバラになり
SNS上では正義や倫理に関する対立が絶えません。
ある人にとっては「正しい行い」が、
別の人にとっては「攻撃的」であることもあり
共通の価値基準の喪失が社会の分断を生んでいます。
なんとか世代の考えなんて
おじいちゃんの私には
全く理解出来ません。
AI(人工知能)の急速な発展も、従来の価値観を揺るがす
事例のひとつでしょう。
AIが人間の代わりに判断を下すようになるとき
そこに込められる「倫理観」は誰のものであり
どんな価値に基づいているのかが問われるんです。
自動運転車が事故の際に誰を優先して守るかという
「トロッコ問題」のようなジレンマでは
絶対的な正解は存在せず
人間がかつて神や宗教に
委ねていた「命の重み」の判断を
今やテクノロジーの世界で
人間自身が決めなければならない状況にある
んです。
これは正に、ニーチェが予見した「神なき世界」で
人間が新たな価値を創造しなければならないという
課題に直面していることを示しています。
ところが我々はこれに対して
全く準備が出来ていません。
神はAIなのでしょうか??
私達
人間はその神に置いてけぼりを
喰らうのかもしれません。
こういう時代だからこそ
まさにニーチェが説いた
「自ら価値を創造する」
生き方が必要なのだと思います。
一旦立ち止まって
これから人類をどうするか?
どういう方向に進ませるのか?
「超人」になって考える必要があると
私は思います。
ちなみに
ここまで書いてきてなんですが
実は私はニーチェが好きでも嫌いでもないです(笑)
ヴィトゲンシュタインの方がずっと好きなんです(笑)
更に因みに当然
前期ヴィトゲンシュタインよりも後期ヴィトゲンシュタインの方が
遙かに好きですし、実は言語のコンテクストや使い方に着目されて
人工知能AIのシステムは出来てますが、この発想こそが
後期ヴィトゲンシュタインであります。
昔の開成の生徒に、私はヴィトゲンシュタインが
好きだと話をしたときに
こういうコンピュータが出来るのではないか?
そうすれば今までと全く違う発想から作り出せる
コンピュータが出来る、みたいな話をしていましたら
2025年ついに私のしがない妄想に
現実が追いついてきました(笑)
ヴィトゲンシュタインが言う
哲学の役割も本質的にあってると
私は思いますし
「言葉は教えるものではなく、使わせるもの」
という話も
私の人生に大きな影響を与え
理論物理学にしか興味がなかった私に
そとの世界、人間とのcommunicationをさせるに至ったのは
ヴィトゲンシュタインだったと言って過言ではありません。
2014年09月27日
主観と客観の問題
ブログのコメントに質問を頂いたので
お返事を書いておきます。
慶大生さんへ
家庭教師が儲かるか儲からないか?
というご質問ですが
これは何ともお答えができません。
それは何故か
と言いますと
儲かるか儲からないかは主観的な問題だからです。
人が一般に「儲かる」というときは
費用対効果を考えて儲かるか儲からないかを
考えているのだと思いますが
最終的に儲かったのか儲からなかったかというのは
主観的な問題、つまり本人の感じ方次第だと思います。
問題というのは
主観的な、簡単に言えば心の持ちようの問題と
客観的な、簡単に言えば自分ではどうにもならない問題
自分には無関係な問題があります。
私が慶大生さんの質問にお答えできないのは
儲かるか儲からないかという問題自体が
本当は慶大生さんの主観の問題だからです。
客観的な事実を示すことはできます。
慶大生さんが時給をいくらに設定し
週にどれくらい仕事をいれ
どれだけの時間を仕事に費やすか
これは自分でシミュレートして頂ければ
想像がつくと思います。
ここまでは客観的な問題なんです。
果してその結果を
慶大生さんが儲かると感じるのか
儲からないと感じるのか
それは慶大生さんの主観的な問題で
私にはさっぱりわかりません。
主観的問題の多くは本人の心のもちようで解決します。
また、心のもちようのせいで
生まれる主観的な問題も存在します。
例えば
普通に考えたら十分なお金持ちの人も
周りに自分よりお金持ちの人が多い場合
客観的にはお金持ちでも
主観的には貧乏だという感覚を抱くことになります。
病気の類もそうです。
私は椎間板ヘルニアでMRIの画像上
神経がかなり圧迫されているため
座りすぎたりすると左足に神経痛が走りますが
世の中には原因の分からない腰痛というの沢山あります。
NHKのテレビ放送によるものなので
数字は正確かどうかわかりませんが
腰痛の原因の80%は精神的なものだそうです。
腰痛の激痛は一度味わうと忘れなれないくらい
精神に焼き付いてしまいます。
そうするとそれ以後、今までは気にしなかったくらいの
腰の違和感すら痛みとして自分が主観的問題として
解釈してしまいます。
以前ブログで書きましたが
私の逆流性食道炎事件もそうです。
ものを飲み込んだときに、胸が詰まる感じがする
呑酸を感じる、胸やけがひどい
こんな症状が10日くらい続いて苦しくて苦しくて
仕方がなかったのですが
医者に行ったところ逆流性食道炎自体は三、四日で治る筈だから
後は精神的な問題だと言われました。
私が気にしすぎてしまうわけです。
その話を聞いたあと何とその後二日で治ってしまいました(笑)
自分自身を阿呆かと思いました(笑)
ただ、医学的な検査をしても異常のない逆流性食道炎の人は沢山いて
ネットで調べても何カ月も治らない人はざらにいます。
人によっては年単位で治りません。
そういう人たちは主観的問題として、もはや無意識のうちに
脳が逆流性食道炎を忘れることができないのだと思います。
私のように言われてパーっと忘れるのは
頭が悪いだけかもしれませんが(笑)
人間は精神が発達したことで
精神の呪縛を解くのは非常に難しいです。
最近は知識も増えてきました。
昔は医者がいうことはそのまま信じて、思いこんで
家に帰れば精神由来の症状はプラセボ効果で治っていたのですが
知識がある人は医者の言うことを疑ってしまって
十分にプラセボが効きません。
景気もそうです。
最近の人が賢くなってきたせいでなかなか景気は回復しません。
マスコミや政治家が好景気感を煽っても
今の国民は頭が良く、将来のことを良く考えるため
結果としてお金をどんどん使うことはなく
景気もそれによってよくならないのです。
現代は知恵がついた分
このような問題と沢山向き合わなければならなくなりました。
宗教が流行らなくなったのもそのせいです。
人と「比べて」何かを考えることほど
自分を不幸にすることはありません。
客観的問題をわざわざ自分の主観的問題に取りこんでいるからです。
戦後焼け野原の中では皆が何もないので
特別相対的な貧困を感じた人はほとんどいませんでした。
貧乏でも皆が貧乏だったからです。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というギャグさえ
私には哲学的響きを感じさせます。
人は無意識のうちに近くの人と自分をくらべ
必要のない主観的な問題を増やしていってると思います。
やりがいのある仕事が探したい
儲かる仕事を探したい等々
これら全ては
本人がどう感じるかという主観的な問題です。
極端に言うと
食べ物がうまいか、まずいかという問題と同じなんです。
自分がある店のラーメンがうまいと思っても
それは個人的、主観的な問題で
客観的に言える問題ではないのです。
テレビで放送しているおいしいお店も同じです。
ですから主観的な問題は
私がアドバイスできる話ではないんです。
ただ、私の主観を述べることは勿論できます。
それをコメントで批判等されてもどうしようもないことは
今までの文章で分かって頂けるかと思います。
私が言えることは私自身の個人的体験として
プロ家庭教師は非常にやり甲斐もあれば
楽しくもありますし、自分が今まで感じたことの無いような
頭が割れそうな苦しみを感じることもあります。
私としては仕事というものは
儲かる儲からないという尺度で考えたことはありません。
私が儲かる儲からないという尺度で仕事を選ぶならば
もっと他の仕事をやります。
しかし、私はお金というのは目的ではないと思っています。
お金を稼いで、それを使って何かをする。
何かをする方が目的であるべきです。
お金をどう使うか、自己投資に使うか、リラックスに使うか
生活を潤すために使うか
それは人それぞれだと思いますが
お金を稼ぐこと自体は仕事の目的ではないと私は思っています。
仕事とは、これは私の勝手な定義ですが
自分の得たものを社会にoutputする営みだと思います。
ですから社会に何かしらの貢献をしなければ
私は仕事だとは思いません。
当然、お金を稼げは経済が潤うので
それも社会貢献だと言う人もいます。
でも、その人は本質的には私の定義する仕事はしていないと
私は思います。
私は「仕事」が好きです。
ですから死ぬ直前まで働いていたいです。
今の仕事、プロ家庭教師にも沢山のやり甲斐があります。
その中で一番大きいことは
生徒の人生の進路という主観的な問題を
私の主観的問題として経験させてもらえる点にあります。
喜びも苦しみも共有できます。
頑張り甲斐、自分の力の発揮のし甲斐があるんです。
その中で結果が出ると本当に嬉しいです
。
この時の為に全てはあったと思えるのです。
だらだら長く書いてしまって
慶大生さんの質問について
いいアドバイスはできなかったかもしれませんが
参考までに
カントの『純粋理性批判』「実践理性批判』『判断力批判』をお読み
頂ければ何か見つかるかもしれません。
何も見つからないかもしれません。
これも慶大生さんの主観的な問題なのですが(笑)
(オマケ)
私が個人的に日々数式をいじっています。
宇宙の始まり、成り立ちについても
私は主観的な問題だと捉えています。
ですから何かで発表しようと思う気持ちは全くありません。
このように私がなったのは
最初は諸々ここでは書けない
客観的な問題があったわけですが
それをある時から私は主観的問題として捉えることによって
自分の中で克服したのです。
宇宙の問題は極めて主観的で
宇宙がいつ、どう始まろうが大抵の人には関係のない話なんです。
お返事を書いておきます。
慶大生さんへ
家庭教師が儲かるか儲からないか?
というご質問ですが
これは何ともお答えができません。
それは何故か
と言いますと
儲かるか儲からないかは主観的な問題だからです。
人が一般に「儲かる」というときは
費用対効果を考えて儲かるか儲からないかを
考えているのだと思いますが
最終的に儲かったのか儲からなかったかというのは
主観的な問題、つまり本人の感じ方次第だと思います。
問題というのは
主観的な、簡単に言えば心の持ちようの問題と
客観的な、簡単に言えば自分ではどうにもならない問題
自分には無関係な問題があります。
私が慶大生さんの質問にお答えできないのは
儲かるか儲からないかという問題自体が
本当は慶大生さんの主観の問題だからです。
客観的な事実を示すことはできます。
慶大生さんが時給をいくらに設定し
週にどれくらい仕事をいれ
どれだけの時間を仕事に費やすか
これは自分でシミュレートして頂ければ
想像がつくと思います。
ここまでは客観的な問題なんです。
果してその結果を
慶大生さんが儲かると感じるのか
儲からないと感じるのか
それは慶大生さんの主観的な問題で
私にはさっぱりわかりません。
主観的問題の多くは本人の心のもちようで解決します。
また、心のもちようのせいで
生まれる主観的な問題も存在します。
例えば
普通に考えたら十分なお金持ちの人も
周りに自分よりお金持ちの人が多い場合
客観的にはお金持ちでも
主観的には貧乏だという感覚を抱くことになります。
病気の類もそうです。
私は椎間板ヘルニアでMRIの画像上
神経がかなり圧迫されているため
座りすぎたりすると左足に神経痛が走りますが
世の中には原因の分からない腰痛というの沢山あります。
NHKのテレビ放送によるものなので
数字は正確かどうかわかりませんが
腰痛の原因の80%は精神的なものだそうです。
腰痛の激痛は一度味わうと忘れなれないくらい
精神に焼き付いてしまいます。
そうするとそれ以後、今までは気にしなかったくらいの
腰の違和感すら痛みとして自分が主観的問題として
解釈してしまいます。
以前ブログで書きましたが
私の逆流性食道炎事件もそうです。
ものを飲み込んだときに、胸が詰まる感じがする
呑酸を感じる、胸やけがひどい
こんな症状が10日くらい続いて苦しくて苦しくて
仕方がなかったのですが
医者に行ったところ逆流性食道炎自体は三、四日で治る筈だから
後は精神的な問題だと言われました。
私が気にしすぎてしまうわけです。
その話を聞いたあと何とその後二日で治ってしまいました(笑)
自分自身を阿呆かと思いました(笑)
ただ、医学的な検査をしても異常のない逆流性食道炎の人は沢山いて
ネットで調べても何カ月も治らない人はざらにいます。
人によっては年単位で治りません。
そういう人たちは主観的問題として、もはや無意識のうちに
脳が逆流性食道炎を忘れることができないのだと思います。
私のように言われてパーっと忘れるのは
頭が悪いだけかもしれませんが(笑)
人間は精神が発達したことで
精神の呪縛を解くのは非常に難しいです。
最近は知識も増えてきました。
昔は医者がいうことはそのまま信じて、思いこんで
家に帰れば精神由来の症状はプラセボ効果で治っていたのですが
知識がある人は医者の言うことを疑ってしまって
十分にプラセボが効きません。
景気もそうです。
最近の人が賢くなってきたせいでなかなか景気は回復しません。
マスコミや政治家が好景気感を煽っても
今の国民は頭が良く、将来のことを良く考えるため
結果としてお金をどんどん使うことはなく
景気もそれによってよくならないのです。
現代は知恵がついた分
このような問題と沢山向き合わなければならなくなりました。
宗教が流行らなくなったのもそのせいです。
人と「比べて」何かを考えることほど
自分を不幸にすることはありません。
客観的問題をわざわざ自分の主観的問題に取りこんでいるからです。
戦後焼け野原の中では皆が何もないので
特別相対的な貧困を感じた人はほとんどいませんでした。
貧乏でも皆が貧乏だったからです。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というギャグさえ
私には哲学的響きを感じさせます。
人は無意識のうちに近くの人と自分をくらべ
必要のない主観的な問題を増やしていってると思います。
やりがいのある仕事が探したい
儲かる仕事を探したい等々
これら全ては
本人がどう感じるかという主観的な問題です。
極端に言うと
食べ物がうまいか、まずいかという問題と同じなんです。
自分がある店のラーメンがうまいと思っても
それは個人的、主観的な問題で
客観的に言える問題ではないのです。
テレビで放送しているおいしいお店も同じです。
ですから主観的な問題は
私がアドバイスできる話ではないんです。
ただ、私の主観を述べることは勿論できます。
それをコメントで批判等されてもどうしようもないことは
今までの文章で分かって頂けるかと思います。
私が言えることは私自身の個人的体験として
プロ家庭教師は非常にやり甲斐もあれば
楽しくもありますし、自分が今まで感じたことの無いような
頭が割れそうな苦しみを感じることもあります。
私としては仕事というものは
儲かる儲からないという尺度で考えたことはありません。
私が儲かる儲からないという尺度で仕事を選ぶならば
もっと他の仕事をやります。
しかし、私はお金というのは目的ではないと思っています。
お金を稼いで、それを使って何かをする。
何かをする方が目的であるべきです。
お金をどう使うか、自己投資に使うか、リラックスに使うか
生活を潤すために使うか
それは人それぞれだと思いますが
お金を稼ぐこと自体は仕事の目的ではないと私は思っています。
仕事とは、これは私の勝手な定義ですが
自分の得たものを社会にoutputする営みだと思います。
ですから社会に何かしらの貢献をしなければ
私は仕事だとは思いません。
当然、お金を稼げは経済が潤うので
それも社会貢献だと言う人もいます。
でも、その人は本質的には私の定義する仕事はしていないと
私は思います。
私は「仕事」が好きです。
ですから死ぬ直前まで働いていたいです。
今の仕事、プロ家庭教師にも沢山のやり甲斐があります。
その中で一番大きいことは
生徒の人生の進路という主観的な問題を
私の主観的問題として経験させてもらえる点にあります。
喜びも苦しみも共有できます。
頑張り甲斐、自分の力の発揮のし甲斐があるんです。
その中で結果が出ると本当に嬉しいです
この時の為に全てはあったと思えるのです。
だらだら長く書いてしまって
慶大生さんの質問について
いいアドバイスはできなかったかもしれませんが
参考までに
カントの『純粋理性批判』「実践理性批判』『判断力批判』をお読み
頂ければ何か見つかるかもしれません。
何も見つからないかもしれません。
これも慶大生さんの主観的な問題なのですが(笑)
(オマケ)
私が個人的に日々数式をいじっています。
宇宙の始まり、成り立ちについても
私は主観的な問題だと捉えています。
ですから何かで発表しようと思う気持ちは全くありません。
このように私がなったのは
最初は諸々ここでは書けない
客観的な問題があったわけですが
それをある時から私は主観的問題として捉えることによって
自分の中で克服したのです。
宇宙の問題は極めて主観的で
宇宙がいつ、どう始まろうが大抵の人には関係のない話なんです。
2014年07月27日
第3講 プラトンのイデアと現代宇宙論~後編~
プラトンの現象界とイデア界という区分は
私たちの宇宙を非常によく表しています。
私たちの宇宙は沢山の物質に溢れているように
思うかもしれません。
しかし、実際は宇宙全ての原子等の物質を
集めても全宇宙の4.9%しかありません。
宇宙は未知の素粒子
ダークマターが26.8%
ダークエネルギーが68.3%
からなっており
私たち物質は宇宙にとって
ラーメン一杯を宇宙とすると(笑)
スープの底に残る澱のようなものなのです。
私たち物質は無くても宇宙の過去や未来に何の影響も及ぼさないのです。
実際に多元解釈では、複数の宇宙が存在していて
その宇宙の中には物質はなく
ダークマターやダークエネルギーしか存在しない宇宙というのも存在し得ます。
しかし物質だけの宇宙というのは絶対に存在しないのです。
私たち物質は宇宙に存在しなくても宇宙は何にも困らないのです。
この宇宙にとって主役はダークマターやダークエネルギーの方なのです。
プラトンの思想で言えば
私たち物質は現象界
ダークマターやダークエネルギーがイデア界ということになります。
そこで私が無神論者である理由その1です。
(順を追って何故神は存在しないかをこれからこのコーナーで
書いていこうと思います。)
私たち物質、宇宙の全ての原子はせいぜい宇宙の4.9%しかありません。
存在しなくても宇宙にとっては何も困らない存在です。
そんな物質の中に神様は存在するでしょうか?
全宇宙の5%にも満たない中に神がいる
そんな自己中心的な解釈はいくらなんでも無理があります。
更に物質がなくても宇宙は存在できます。
ということは宇宙を作った神は少なくとも
物質の中にはいないということなのです。
仮にいたとしても4.9%の私たちなど特に気にしません(笑)
ラーメンを食べにいって、麺やらスープやら具やらは評価の対象に
なりますが、丼の底に溜まっている澱を気にする人など
ほとんどいません。澱がメインには絶対になりません。
更に宇宙にとって澱のような私たち全宇宙の物質の中で
さらに地球の人類なんて澱の一粒にも満たない
存在すら気づけないくらいどうでもいい存在です。
そんな中に神やら預言者やら諸々がいるなんて
思い上がりもいいところです。
どれだけ自己中心主義なのでしょうか。
勿論、各宗教はそういうことは認めず人間中心主義です。
歴史や考古学、天文学でさえ認めません。
そうでないと全宇宙、全世界を作った神の存在が危うくなるからです。
現在でも進化論を否定している宗教もあれば、
長い間、つい最近まで地動説を認めなかった宗教もあるんです。
それくらい宗教にとって、私たちは中心でないと困るんです。
これらのお話、宗教の歴史的経緯
特に世界三代宗教については
この哲学概論で書いていきたいと思います。
私は宗教自体を否定している訳ではありません。
これは誤解しないで頂きたいです。
宗教を心の支えにしておられる方が何十億とおられます。
その方にとって宗教は大切なもので
神という架空の存在を人生の中に置き
常に神の目によって監視されていると考えるのは
弱い人間が正しく生きていく
一つの道徳的テクニックとして非常に有効だと思います。
一方で宗教には戦争、争いを生んできたという負の側面もあります。
存在しない神のために存在する私たちが
死ぬのは明らかに馬鹿げています。
宗教とは節度を持って付き合った方がいいです。
何はともあれ
文化としての宗教、心のよりどころとしての宗教は
意味のあるものだと思います。
しかし…神が実在するかと言えばそれはNoだと思います。
もしいるとすればダークマターやダークエネルギー側、イデア界に
存在すると考えるのが圧倒的に妥当です。
昔は宇宙や世界のことがよくわからなかった
だから人間が中心、地球が中心のような気がしていた
だから人間の中で神の名を騙るものがでてきた。
それは歴史的必然だとも言える仕方がないことです。
しかし、私たちの宇宙の認識は時代と共に大きく進歩し
主役だと思っていた私たち物質は
ほとんどなくてもいいものだということがわかりました。
教義を変えるというのは難しいのかもしれませんが
あるところで事実は事実と認めないと
宗教が持つ本来の価値が逆に損なわれてしまうのではないかと
私は危惧しています。
私たち物質の世界は現象界でしかないのです。
ソクラテスの思想に端を発した
プラトンのイデアというのは
おとぎ話のように聞こえる面もあるかもしれませんが
一方で非常に現代的な宇宙論も内包し得る哲学なんです。
プラトンからアリストテレスへ
またギリシア哲学は大きな発展を遂げることになります。
そしてこのギリシア哲学は
西洋思想、西洋宗教の根幹を成すものへと昇華していくのです。
それではまた
第4講アリストテレスのお話で会いましょう
私たちの宇宙を非常によく表しています。
私たちの宇宙は沢山の物質に溢れているように
思うかもしれません。
しかし、実際は宇宙全ての原子等の物質を
集めても全宇宙の4.9%しかありません。
宇宙は未知の素粒子
ダークマターが26.8%
ダークエネルギーが68.3%
からなっており
私たち物質は宇宙にとって
ラーメン一杯を宇宙とすると(笑)
スープの底に残る澱のようなものなのです。
私たち物質は無くても宇宙の過去や未来に何の影響も及ぼさないのです。
実際に多元解釈では、複数の宇宙が存在していて
その宇宙の中には物質はなく
ダークマターやダークエネルギーしか存在しない宇宙というのも存在し得ます。
しかし物質だけの宇宙というのは絶対に存在しないのです。
私たち物質は宇宙に存在しなくても宇宙は何にも困らないのです。
この宇宙にとって主役はダークマターやダークエネルギーの方なのです。
プラトンの思想で言えば
私たち物質は現象界
ダークマターやダークエネルギーがイデア界ということになります。
そこで私が無神論者である理由その1です。
(順を追って何故神は存在しないかをこれからこのコーナーで
書いていこうと思います。)
私たち物質、宇宙の全ての原子はせいぜい宇宙の4.9%しかありません。
存在しなくても宇宙にとっては何も困らない存在です。
そんな物質の中に神様は存在するでしょうか?
全宇宙の5%にも満たない中に神がいる
そんな自己中心的な解釈はいくらなんでも無理があります。
更に物質がなくても宇宙は存在できます。
ということは宇宙を作った神は少なくとも
物質の中にはいないということなのです。
仮にいたとしても4.9%の私たちなど特に気にしません(笑)
ラーメンを食べにいって、麺やらスープやら具やらは評価の対象に
なりますが、丼の底に溜まっている澱を気にする人など
ほとんどいません。澱がメインには絶対になりません。
更に宇宙にとって澱のような私たち全宇宙の物質の中で
さらに地球の人類なんて澱の一粒にも満たない
存在すら気づけないくらいどうでもいい存在です。
そんな中に神やら預言者やら諸々がいるなんて
思い上がりもいいところです。
どれだけ自己中心主義なのでしょうか。
勿論、各宗教はそういうことは認めず人間中心主義です。
歴史や考古学、天文学でさえ認めません。
そうでないと全宇宙、全世界を作った神の存在が危うくなるからです。
現在でも進化論を否定している宗教もあれば、
長い間、つい最近まで地動説を認めなかった宗教もあるんです。
それくらい宗教にとって、私たちは中心でないと困るんです。
これらのお話、宗教の歴史的経緯
特に世界三代宗教については
この哲学概論で書いていきたいと思います。
私は宗教自体を否定している訳ではありません。
これは誤解しないで頂きたいです。
宗教を心の支えにしておられる方が何十億とおられます。
その方にとって宗教は大切なもので
神という架空の存在を人生の中に置き
常に神の目によって監視されていると考えるのは
弱い人間が正しく生きていく
一つの道徳的テクニックとして非常に有効だと思います。
一方で宗教には戦争、争いを生んできたという負の側面もあります。
存在しない神のために存在する私たちが
死ぬのは明らかに馬鹿げています。
宗教とは節度を持って付き合った方がいいです。
何はともあれ
文化としての宗教、心のよりどころとしての宗教は
意味のあるものだと思います。
しかし…神が実在するかと言えばそれはNoだと思います。
もしいるとすればダークマターやダークエネルギー側、イデア界に
存在すると考えるのが圧倒的に妥当です。
昔は宇宙や世界のことがよくわからなかった
だから人間が中心、地球が中心のような気がしていた
だから人間の中で神の名を騙るものがでてきた。
それは歴史的必然だとも言える仕方がないことです。
しかし、私たちの宇宙の認識は時代と共に大きく進歩し
主役だと思っていた私たち物質は
ほとんどなくてもいいものだということがわかりました。
教義を変えるというのは難しいのかもしれませんが
あるところで事実は事実と認めないと
宗教が持つ本来の価値が逆に損なわれてしまうのではないかと
私は危惧しています。
私たち物質の世界は現象界でしかないのです。
ソクラテスの思想に端を発した
プラトンのイデアというのは
おとぎ話のように聞こえる面もあるかもしれませんが
一方で非常に現代的な宇宙論も内包し得る哲学なんです。
プラトンからアリストテレスへ
またギリシア哲学は大きな発展を遂げることになります。
そしてこのギリシア哲学は
西洋思想、西洋宗教の根幹を成すものへと昇華していくのです。
それではまた
第4講アリストテレスのお話で会いましょう
2014年07月25日
第3講 プラトンのイデアと現代宇宙論~前編~
ソクラテスが亡くなり
アテネ市民を善き魂(プシュケー)に導くという
意思を継いだのがプラトンでした。
プラトンと言えばイデア
イデアって結局何ですか?という質問を
今までどれだけ受けてきたかわかりません。
その都度説明して参りましたが
これからはこのブログの記事をみてください
といえば楽なので一石二鳥です(笑)
プラトンはこの世界は
現実の世界とは別に理想の世界があると考えました。
現実の世界を現象界
理想の世界をイデア界と言います。
まずこの対比をしっかりと理解してください。
現象界というのは、今ある現実の世界ではあるが
絶えず変化する仮の世界で、感覚によって捉えられるもの
イデア界というのは理想の世界であり
永遠不変で完全無欠な真の実在で、理性(ロゴス)によってのみ
捉えられるもの
です。
有名な洞窟の比喩がこのイデアを上手く表しています。
つまり私たちは感覚で理解できるのは
イデアの影である現実だけだということです。
現象界に生きる我々は感覚によって捉えたものを
適当に真実だと思っているが
実はそれは思い違いで
真実、つまりイデアは理性によってしか到達できない、
だから理性を磨きなさい、というのがプラトンの思想です。
プラトンは自分の思想を伝えるため
理性を磨くために
アカデメイアという学校まで作りました。
そして、その学校の生徒に次回の主役
アリストテレスがいました。
プラトンは肉体と魂(プシュケー)を分けて考えました。
肉体の牢獄という思想です。
魂は元々イデア界にいたのですが、肉体を得たことで
現象界に囚われの身になってしまった。
しかし、魂も淡い記憶でイデアのことは覚えていて
常にそれに恋焦がれているんです。
その精神的欲求をエロースと言います。
プラトンはこの魂を善のイデアに向けて肉体から解き放て
と言っているんです。
このことでソクラテスの理想、善き魂(プシュケー)が叶うと考えました。
それでは魂をイデアに解き放つにはどうすればいいか?
プラトンは
現象界で魂は感覚を経験する度にイデアを想起するのだと言いました。
そして魂の働きを三つにわけて考えました。(魂の三分説)
それは、理性、意思、欲望です。
理性はイデア界に属して「知恵」の徳(アレテー)を司ります。
意思はイデア界と現象界の橋渡しをして「勇気」の徳を司ります。
欲望は身体に属して「節制」の徳を司ります。
この三つの理性、意思、欲望が調和して十全に働くとき
理性が意思と欲望を統御してそれぞれが十分な働きをしたときに
ソクラテスが重視した「正義」が実現するとプラトンは考えました。
この理性、意思、欲望、正義を四元徳と言います。
このようにしてプラトンはソクラテスが目指していた
「善き魂」と「正義」を実現しようとしていたのです。
しかし、プラトンにはソクラテスとは違う思想もありました。
それはソクラテスがアテネ市民の裁判によって殺されてしまった
ということをプラトンは非常に残念に思っていて
これが民主主義の限界だと思ったからです。
プラトンは人には役割があるのだということを言いました。
欲望の強い人は生産者になり
意思の強い人は軍人になり
そして理性をもった哲学者こそが統治者になるべきだと言ったのです。
理性をもった哲学者こそが
知恵の徳をもって生産者や軍人を統治していくことで
真の正義が達成できると考えました。
政治家志望だったプラトンらしい考え方です。
人には向き、不向きがあって
なんでも平等にやるとソクラテスのような大賢人でさえ
死刑になってしまうところが民主主義の怖いところだと
プラントは指摘したのです。
ここはソクラテスとは考えが違う部分です。
それでは次回は
プラトンの思想を現代宇宙論風にアレンジして
神の実在の話にまで到達したいと思います。
→後編に続く
アテネ市民を善き魂(プシュケー)に導くという
意思を継いだのがプラトンでした。
プラトンと言えばイデア
イデアって結局何ですか?という質問を
今までどれだけ受けてきたかわかりません。
その都度説明して参りましたが
これからはこのブログの記事をみてください
といえば楽なので一石二鳥です(笑)
プラトンはこの世界は
現実の世界とは別に理想の世界があると考えました。
現実の世界を現象界
理想の世界をイデア界と言います。
まずこの対比をしっかりと理解してください。
現象界というのは、今ある現実の世界ではあるが
絶えず変化する仮の世界で、感覚によって捉えられるもの
イデア界というのは理想の世界であり
永遠不変で完全無欠な真の実在で、理性(ロゴス)によってのみ
捉えられるもの
です。
有名な洞窟の比喩がこのイデアを上手く表しています。
つまり私たちは感覚で理解できるのは
イデアの影である現実だけだということです。
現象界に生きる我々は感覚によって捉えたものを
適当に真実だと思っているが
実はそれは思い違いで
真実、つまりイデアは理性によってしか到達できない、
だから理性を磨きなさい、というのがプラトンの思想です。
プラトンは自分の思想を伝えるため
理性を磨くために
アカデメイアという学校まで作りました。
そして、その学校の生徒に次回の主役
アリストテレスがいました。
プラトンは肉体と魂(プシュケー)を分けて考えました。
肉体の牢獄という思想です。
魂は元々イデア界にいたのですが、肉体を得たことで
現象界に囚われの身になってしまった。
しかし、魂も淡い記憶でイデアのことは覚えていて
常にそれに恋焦がれているんです。
その精神的欲求をエロースと言います。
プラトンはこの魂を善のイデアに向けて肉体から解き放て
と言っているんです。
このことでソクラテスの理想、善き魂(プシュケー)が叶うと考えました。
それでは魂をイデアに解き放つにはどうすればいいか?
プラトンは
現象界で魂は感覚を経験する度にイデアを想起するのだと言いました。
そして魂の働きを三つにわけて考えました。(魂の三分説)
それは、理性、意思、欲望です。
理性はイデア界に属して「知恵」の徳(アレテー)を司ります。
意思はイデア界と現象界の橋渡しをして「勇気」の徳を司ります。
欲望は身体に属して「節制」の徳を司ります。
この三つの理性、意思、欲望が調和して十全に働くとき
理性が意思と欲望を統御してそれぞれが十分な働きをしたときに
ソクラテスが重視した「正義」が実現するとプラトンは考えました。
この理性、意思、欲望、正義を四元徳と言います。
このようにしてプラトンはソクラテスが目指していた
「善き魂」と「正義」を実現しようとしていたのです。
しかし、プラトンにはソクラテスとは違う思想もありました。
それはソクラテスがアテネ市民の裁判によって殺されてしまった
ということをプラトンは非常に残念に思っていて
これが民主主義の限界だと思ったからです。
プラトンは人には役割があるのだということを言いました。
欲望の強い人は生産者になり
意思の強い人は軍人になり
そして理性をもった哲学者こそが統治者になるべきだと言ったのです。
理性をもった哲学者こそが
知恵の徳をもって生産者や軍人を統治していくことで
真の正義が達成できると考えました。
政治家志望だったプラトンらしい考え方です。
人には向き、不向きがあって
なんでも平等にやるとソクラテスのような大賢人でさえ
死刑になってしまうところが民主主義の怖いところだと
プラントは指摘したのです。
ここはソクラテスとは考えが違う部分です。
それでは次回は
プラトンの思想を現代宇宙論風にアレンジして
神の実在の話にまで到達したいと思います。
→後編に続く

